今回は、ビクトール・フランクル『夜と霧』の「あらすじ」と「読書感想文」の紹介です。本書は、ナチスの強制収容所に送り込まれた心理学者が記した歴史的意味の強い一冊。


生きるとは?人間とは?本当に大切な考え方とは?・・・この深遠な問いに対するヒントを与えてくれる人類の遺産と思える作品です。

「夜と霧」あらすじ【ネタバレ動画】

以下の動画は「ネタバレ」ですので内容を知りたくない方はご注意ください。

「夜と霧」私の読書感想文

フランクル「夜と霧」を読んで

『夜と霧』この本のタイトルだけでは、内容がアウシュビッツの経験談とは伝わりにくい。だがこの邦題には翻訳家の意図があるのだと私は思った。夜も霧も「光を奪い開けた前方の見通しを奪うものの例え」として用いられていると思うのだ。それは、アウシュビッツの強制収容所での日々を描いたものであるから、光が見えない生活を伝えたかったのだろうと推測できるからだ。

原題である「心理学者、強制収容所を体験する」は、ストレートに作者の思いの深さが込められている。心理学は人の心を知る学問である。著者フランクルは自ら被収容者としてのその体験談を通じ「人間とは何か」という問いと答えを提示してくれている。つまり、邦訳版のタイトルも、原題でのタイトルも、ともに読者に対し「問い」を与えている作品なのだ。

アウシュビッツは人間が作り出した地獄だ。人間とはこれだけ残酷で愚かになれる生き物だと定義したと言っても過言ではない。フランクルは被収容者でありながら、心理学者として研究・観察者でもあった。

ナチスの監視員の中でも特に暴力的なもの、逆に密かに被収容者にパンや薬を与える者もいた。著者は、無意識に後者を「人間らしい」行動を取る者と言い、そこには人間の善意を信じたい意図が含まれているように思える。だが前者も後者もともに人間なのである。

戦時下という誰もが追い詰められた状況でこそ、人間個々のモラルは顕著になるのだ。「人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発見した存在であると同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。」と。

私は「人間とは何か」という問いに対して答えを限定する事は出来ないだろうとは思っていた。だが改めて本書より感じたのはこの答えは無数に存在するものだと気づいた。人間の多様性は良き者悪しき者あり、私たちは大人になるにつれ人間に対して楽観・悲観どちらにも偏るのも違うと気づかせてくれた。そこで自分がなりたい自分としてどう生きられるかが問題なのだと思った。

そしてもう一つの問い「生きる意味とは何か」が提示されている。これは現代の私たちも日々の生活が辛かったりトラブルに見舞われると「何のため生きているのか?」自問自答する事はある。だが正しい答えを出せぬまま私は今に至るのだが、著者からのその答えは意外なものだった。

「私たちが人生から生きる事を問われている」私たちは運命に「お前の生きる意味はコレだ」と決めつけてもらいたかった。私の運命に従って生きることで何かに求められ、生きる意味を与えられる以上、我が身の存在を許されたいと願うからではないか?と思うのです。それが生きる意味を自問自答する理由であると思うのですが、著者は真逆の「運命が私たちに答えを求めている」という考察は目から鱗でありつつ、正直それは困ると思ってしまうのだ。

私たちは日々何かを選択し決定することを強いられている。その答え一つ一つが人生を方向付け、生きる道や生き方が変わってくるのだ。したがって「何で生きるか」より「どう生きるか」が重要であると考えられる。例えば、アウシュビッツ内でのそれぞれの生き方、同じ被収容者でもナチス側に媚びて仲間を売る者、生き残るための保身に走る者、自分の飢えより他者の苦しみを優先させる者。それぞれが全く違った人生の選択をしたがこれがどう生きるかにあたるのだ。

アウシュビッツのこれらの人々も現代に生きる我々も、人生をどう選択するかの権利は誰にも奪えないものだった。人は己の生や幸福を守るために正しい選択をしているつもりで生きてはいる。私は本書を読み「人間とは何か」「生きる意味とは何か」と問われ、それに対し「自分を恥じる事なく、苦しみもあったが幸せに終われたと言える人生を選びたい」・・・そう思った。