今回は、ヘルマン・ヘツセの名作「車輪の下」の読書感想文です。


ヘッセ「車輪の下」読書感想文

「車輪の下」を読んで

「車輪の下」とは、なんていやな比喩だろう。このいやな比喩に惹かれ、前から読んでみようと思っていたこの本をとうとう読んだ。そのとおり、この本の主人公、ハンス=ギーベンラートは、車輪の下にひかれたような、みじめな少年だった。

ジュワルツワルトの町一番の天才。町民の期待をいっしんに受けて、神学校受験の勉強に励む彼。神学校受験のために、大好きな釣りをも禁止された彼。何もかも、神学校受験のためにとり上げられ、黙々と勉強し、神学校にうかり、そして谷川で死んでいったハンス。かわいそうだ。私は、ハンスが死んだ理由は、自殺とは思いたくない。いや、絶対に思わない。でなかったら、あまりにもハンスがかわいそうだから・・・。

神学校に行くまでは、あんなに熱心にハンスに勉強を教えた校長先生や牧師さん。それなのに、彼がいったん傷ついて故郷に帰ってくると、まるで、もう他人だといわんばかりに、一言のなぐさめのことばもかけない。そんな人たちにすごく腹が立つ。おとなは勝手だ。自分が、ハンスを神学校という重い車輪の下にひいたことを知らない。一人の少年をだめにしたことを知ろうともしない。フランクおじさんと、アンナばあやをのぞいた以外のおとなは、全部きらいだ。彼らがハンスを死なせたんだ。

私は、彼を死なせたおとなたちの中でも、とくに父親に腹が立つ。自分の子供だから愛情はあったと思う。が、ばけの皮をかぶったにせ物の紳士たちを信用して、自分の息子を死なせた。ごく普通の商人で、ごく普通の父親でないョーゼフ。息子の本当の幸せは何だろうと考えずに、神学校に行くことだけが息子にとって最良の幸せだと、人の言葉で信じた彼。そしてそのことを誇りに思っていたヨーゼフ。もし、彼が私の父であったなら、私は父として尊敬しないし、父とも思いたくない。それくらいきらいだ。

無理解な教育の下じきになって生活にやぷれ、初恋にも裏ぎられたハンス。ハンスが、ああなったのは、彼の友だちハイルナーの影響だろうか。神学校の先生たちはそぅ極めつけた。けれど、私はそうは思わない。勉強という生活の中で、ハンスにとってハイルナーは心を許せる友。本当に幸福な気持で自分たちの友情に夢中になれた、たった一つの心の故郷だったに違いないと思う。

先生だちからみれば、ハイルナーはハンスのために良い友人でなかったかもしれない。いや、悪い友人だったろう。ハンスは、ハイルナーのために、勉強の上で自分を眼牲にしたこともしばしばあったのだから。でも、ハイルナーは、ハンスが初めて心を休ませることができた、たった1人の友人、母の愛を知らないハンスが、初めて友情とい5中で愛をみつけたたった一人の友だった。

なぜ、先生たちは成績のことだけで、ハイルナーを、ハンスの悪い友と極めつけたのだろうか。ハンスが、自分はいくら努力しても気まぐれな天才型のハイルナーの成績と同じ位なので、自分の才能について悩んでいた時、なぜ話し相手になってやらなかったのだろうか。なぜ、ハンスの心の故郷を残しておいてやらなかったのだろうか。先生たちは、ハンスの心を傷つけに傷つけた。あんな先生なら私はいらない。学問もあり、思慮分別もあるはずの彼らが、たった一人の少年の気持を、なぜ、理解してやれなかったのだろうか。どうして、ハンスをああまでも追いつめなけれぱならなかったのだろうか……。

読んでいて、腹が立った。ハンスの気持ちに感情移入してしまい共鳴することが多いからだ。そして、ハンスの気持になりきっていた。心の中で強がりを言い、虚勢ぶっていた経験が私にはあるからだ。それが、ハンスというものに形をかえて、現在の私の姿を見せられたようで、そして、その結果が死ということにつながったので恐ろしくなった。

「校長先生が悪いのだ。牧師さんや、ハンスの父親も」この言葉は、私の現実からの逃避であろうか。でも、そうとばかりは言えないであろう。たしかに逃避かもしれない。が、私は負けない。私はハンスではない。現実に堂々とぶつかって行く。ハンスのためにも、私の自身のためにも。