「ライ麦畑でつかまえて」はなぜ人気なの? 今回は名作、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」「あらすじ」や、この本を理解するための「注目すべきポイント」の解説です。

また、最後に「ライ麦畑でつかまえて」を読んでの読書感想文も掲載しておりますので、こちらは、中学生や高校生、大学生などに、宿題の参考用として活用していただければと思います。


「ライ麦畑でつかまえて」は1951年に発表された世界で6千万部も読まれている有名な小説です。にもかかわらず多くの人がこの本は結局何が言いたいの?と頭を捻ります。

また、多くの人が「ライ麦畑でつかまえて」は中二病の男の話だといいますが、それが間違いであることも分かるはずです。

野崎孝さんと村上春樹さんの2人の訳者の違いにも触れていますので、「ライ麦畑でつかまえて」に詳しくなりたい方はぜひご覧ください。

「ライ麦畑でつかまえて」あらすじ&注目すべきポイント【動画解説】

以下の動画は「ネタバレ」ですので、結末などを知りたくない方はご注意ください。

動画が見れる状態で、内容を「活字で確認できる」ように「スクロールできるテキスト原稿」を動画の下に掲載しています。  👍goo!


ライ麦畑でつかまえてのあらすじ。物語は17歳の主人公ホールデンがペンシー高を退学になるところから始まります。

世話になった先生に別れの挨拶をし、寮に戻ると友達ノストラードレイターがホールデンの初恋の女の子ジェンとデートしたと聞いて突然怒りがわいて殴りかかり、そのまま勢いで寮を飛び出します。

退学を叱られるのがわかっているので家に帰れずニューヨークでホテルに泊まってしばらくぶらつくことに決めました。

バーでナンパした田舎者の女性サニーや、ホテルのポン引きと、今まで出会ってきたインチキなクラスメートたちのことを心の中で毒づきながらも心とは裏腹に周囲に媚を売ってかまって欲しがっている自分を淡々と読者に語って聞かせます。

身の置き場もお金もどんどん楽してゆくホールデンはこの世でただ一人大好きな妹のフィービーに会いに行きます。大学のことを聞いたフィービーが怒って「じゃあ、あなたは将来何になりたいの?」と聞くとホールデンは言います。

「大麦畑で子どもたちが走り回ってて大人は僕だけその中の誰かが崖から落ちそうになったらを落ちないように助ける人になりたい。ライ麦畑のキャッチャーになりたい。」

そしてホールデンは、知り合いの誰もいない土地に行って聾啞者のように周囲と関わらずに暮らそうと決めます。けどそれを許してくれない妹のフィービーの無垢な存在が眩しくてただただ涙が出るのでした。

「ライ麦畑でつかまえて」を知る5つのポイント・・・「ライ麦畑でつかまえて」を一度でも読んだことのある方なら、この小説はなぜ人気なのと頭をひねったことがあるはずです。

それもそのはず、作中の大半は17歳の少年が一人称でブツブツと周りの全てに文句を垂れているだけなのですからね。けど5つのポイントに着目することでこの本が何を言いたいのか、なぜ世界中で人気なのかが分かります。

2:31 ポイント①

主人公の好きな人をチェック
本の中で主人公のホールデンは周囲のほとんどすべての人をインチキだと批判していきますホールデンの中でインチキは一つの価値基準であり世の中の人はインチキがそうでないかで二分されて行きます。

ホールデンが好きな人は10歳の妹のフィービーと、白血病で亡くなってしまった弟のアリーと、ニューヨークのホテルで出会った二人の尼さんたちと、そして、かつての同級生で自殺をしてしまったジェームズという少年です。

世の中すべてがお金や名誉や権力などの欲望にまみれて見えるホールデンにとって、幼い子どもたちや利益を求めない尼さんたちや、理不尽な暴力から弱いけど正しい自分を守ろうと自殺した旧友は守りたいと思えるほど、無垢で美しい存在に見えるのです。

守りたいのはホールデンの正義感ではなく、なぜ弱く無垢な存在が守られていない世界なのか、という怒りといら立ちから来る反発心に思えます。正義のない理不尽な世の中に怒っているのです。

2:31 ポイント②

作中のインチキに注目
ライ麦畑でつかまえての中には山ほど「インチキ」という言葉が出てきます。何がインチキなのか主人公ホールデンの言葉を引用すると・・・

「いつだって僕はあって嬉しくもなんともない人に向かってお目にかかれて嬉しかったって言ってるんだから生きていたいと思えばこういうことを言わなきゃならないものなんだ。インチキ臭い映画を見てオイオイ泣いてる奴なんてさ受注あくまで実は根性曲がりのカスなんだ。

たいていの人は車に夢中になっている。ちょっとでもキズが付きやしないかってヒヤヒヤしている話題ときたらガロン当たり名前る走るかっていうようなことばかりだ。

なにしろ口を開けば単一化しろ簡略化しろそればかりなんだそうできないほどもあるってことです」・・・などなどホールデンはこの世の見栄や建前や効率化に対し苛立ちを感じています

そしてそれがインチキという言葉で表現されているのです。インチキという言葉を多用しているのは語彙力の少ない中二病の症例を書きたいからかもしれませんが、この世の不成立を憎みすぎて言葉を選ぶ余裕の無さを、インチキという言葉を多用することで表現しているとも読み取れます。では何故この世の欺瞞や建前をそこまで憎むのでしょうか。

5:34 ポイント③

サリンジャーは戦争経験者
作者のサリンジャーは第二次世界対戦で十分しておりあの悲惨なノルマンディ上陸作戦にも参加しておりやがて神経衰弱で入院し除隊した経験があります。

除隊後に「ライ麦畑でつかまえて」の中で、戦争批判の意味を含まないわけがありません。それを踏まえて「ライ麦畑でつかまえて」を読むと、ここに書かれている平和な世界でのインチキの延長上には戦争という圧倒的理不尽な暴力があるのだとわかります。

ホールデンが憎むインチキとはこの世の理不尽な物事であり、その最たるものが戦争です。ホールデンがライ麦畑から落っこちないように守りたいと願う子どもたちとは理不尽に命を落とす人々なのだとも読み取れます。

ちなみに作中でホールデンは兄の勧めるヘミングウェイの「武器よさらば」の主人公をインチキだと、こき下ろすシーンがあります。ここを見て多くの批評家がサリンジャーはヘミングウェイが嫌いと言いますが、私はそうは思いません。

「ライ麦畑でつかまえて」の中に出てくる主人公ホールデンの兄のD.Bこそ作家としての経歴や生き方がサリンジャーにそっくりで、サリンジャーの等身大の存在としてこの作品に登場しているからです。

サリンジャー自身に近い登場人物のD.Bが「武器よさらば」は素晴らしいとオールデンに進めているので、サリンジャーもこの作品を高く評価していると考えられます。このチャンネルではヘミングウェイの作品も紹介しているので良ければ併せてご覧下さいね。

話を戻して「ライ麦畑でつかまえて」が何を言いたい作品なのか、引き続きヒントを追ってみましょう。

7:18 ポイント④

弟アリーの死
ライ麦畑でつかまえての中には、戦争に対する批判は少ししか出てきません。しかし、それに代わって弟アリーの汐理不尽な死として何度も取り上げています。白血病で若くして亡くなったアリーは素晴らしい子供で、とにかくいい奴だったとオールデンは語ります。

アリーが亡くなった時にホールデンは素手でガラスを何枚も割り、けがをして病院に行ったのだと。若く素晴らしい人間の弟が病気で亡くなることへの猛烈な怒り。そしてお葬式にぞろぞろと集まる親戚やアリーの体を地中に売れてお腹の上に花を置く行為にさえもイラ立ちます。

なぜ罪のない無垢な人間がしなければならないのか、この理不尽な出来事の答えを見つけられずもがいているのに、なぜみんな勉強や立派な仕事に就くことばかり自分に求めるのか。

退学になったホールデンに先生が「人生はゲームなんだよ人生とは実にルールに従ってプレイせにゃならんゲームなんだ」と語るシーンがあります。

平和な世界では確かにそうかもしれませんが、無垢な弟の死という運命の理不尽な仕打ちに憤るホールデンにこの言葉が響くはずがありません。

余談ですが私の長男は小児がんで入院治療の経験があり、今は回復して元気に生活していますが、その経験以来私の死生観も大きく変わりました。

弟の死を悼むホールデンが勉強や学歴に興味を持てずに周囲の平和ボケした人の価値観をことごとくインチキと蔑む気持ちは私にもよくわかります。

中二病だから起こる感情ではなく愛するものに悲劇が起きたからこそ起こる感情です。死は常に隣り合わせにあることを知らず、天寿を全うして当たり前だから、学歴や財産が大事という価値観の人々に怒りが湧き上がるんです。

ライ麦畑でつかまえてのホールデンは大好きだった弟アリーの死を悼む気持ちによって周囲をインチキとサゲツの気持ちが加速しています。

9:23 ポイント⑤

これは母へ書かれた話である
「ライ麦畑でつかまえて」の一ページ目には母へと書かれています作者の D.J.サリンジャーは、この本を母に向けて書いています。

けれど、作品の中では主人公の母親の記述は驚くほど少なく、ホールでの母親がどんな人かは分かりません。その代わり同級生の母親に会ったときに、こんなことを言っています。

「彼女が全然間抜けに見えなかったこの人なら自分の息子がどれくらい悪質なやつかある程度わかっててもいいはずなのになと思った。でも、まあそういうものでもないんだろうね。相手はやっぱり、なんといっても母親な訳だからね。そして母親ってのはさ、みんなちょっとずつ正気を失っているものなんだよ」

私も一人の母として「すみませんおっしゃる通りです」と認めざるを得ません母親は自分の子どもを愛するが故に我が子に対しては盲目で正しい認識ができないのだとホールデンは言っています。

このことからもサリンジャーの母もまた息子を愛しすぎるがゆえに本当の息子の姿を見失っているのではないかと読み取れます。そしてホールデンは作中で言っています。

「完全な無名人になる勇気を持てない自分にうんざりしてるんだ。よく前を見ないで崖の方に走っていく子供なんかがいたら、どこからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうの朝から晩までずっとやっているライ麦畑のキャッチャー。僕はただそういうものになりたいんだ」と。

話は飛びますが、長野県上田市にある無言館に行った事があるますか?そこにあるこれから戦争に行く若者の手紙を見たことがありますか?たくさんの「お母さん、お母さん、お母さん」という手紙。若者は戦争に死にに行く時に残す手紙は、ほとんどお母さんに宛てているものなのだということが胸を深くえぐりました。

11:28 「ライ麦畑でつかまえて」は結局何が言いたいのか?

ライ麦畑でつかまえての一ページ目にかかれている「母へ」も同じです。死を意識した戦争経験を得てサリンジャーを母に訴えたんです。

「お母さん、この世界はとても汚い。欺瞞と理不尽な暴力に満ちている。僕はそんな世界にいたくない。そんな世界に落ちそうな無垢な子供たちを助ける人になりたい。お母さん僕を助けて、僕はいつまでもライ麦畑に無垢な人だけがいられる世界にいたいんだ。けど、その勇気を持てない。自分にうんざりしているんだ。」

「ライ麦畑でつかまえて」は、お母さん、こんな僕という人間を理解してほしいと言うサリンジャーの魂の叫びなのです。

母になってから読んで初めて「ライ麦畑でつかまえて」を理解することができました。主人公のホールデンは、無垢な人たちを尊く思い、死んでしまった弟を悼むことで、周囲の平和な価値観の人たちをインチキと蔑んでいます。その裏側には作者サリンジャーの戦争批判とこの世の汚さから距離を取りたい気持ちが垣間見えます。

そして、無垢な人たちだけがいられる世界、ライ麦畑にいるただ一人の大人でありたいと願っているんです。だから「ライ麦畑でつかまえて」は世界中で6千万部も売れる人気小説なんです。

誰しも一度は、この世の不条理や暴力に絶望し「この世界は汚い、お母さん助けて、自分は無垢なままでいたかった」と思うからです。老若男女、誰しもが。

それでもこの世で生きて行く為に、自分も汚物にまみれてあらゆるインチキに染まることに、時に我慢できなくなるからです。そしてホールデンのように、そしてサリンジャーのように、生涯誰とも関わらずに聾唖者のように生きたいと考えるのではないでしょうか。ライ麦畑に居続けるために・・

13:28 「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーのトリビア

この作品がもし中二病書いたものであれば、成長期を過ぎればインチキな大人社会に妥協して治って行くはずです。しかし、作者のサリンジャーは、この作品を書いた数年後には、高い壁で囲まれた田舎の家で死ぬまで隠遁生活を続けます。

地位も名誉も捨て往年の臨んだ聾唖者のように、人との関わりを最小限に抑えて暮らしたのです。そのことからも、これは中二病の話ではなく、サリンジャーという一人の人間の魂の叫びだったのだとわかります。だからこそ多くの人の心を打つのです。

14:07 村上春樹さんと野崎孝さんの訳書の違い

ライ麦畑でつかまえてを読むなら役者が村上春樹か野崎孝かどちらがいいと言われると・・・がっつり中二病っぽさが見たい方は野崎孝さん。理想と現実の違いの誰にでもある歯がゆさを見たい方は村上春樹さんをおすすめします。

読み分けができるため2冊とも読んでみると面白いですよ。文面的には野崎充さんのほうがスラスラと読みやすかったですが、2006年に村上春樹翻訳の、新解釈のライ麦畑を読んで「あぁなるほどこういうことか」と納得できることがたくさんありました。

  

14:46 「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルのヒミツ

ちなみに英題の「The Catcher in the Rye」を直訳すると「ライ麦畑のキャッチャー」となるから、さっきの訳者の「ライ麦畑でつかまえて」は訳の間違いだと批判を受け、後の村上春樹さんは英題のままのでの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で訳書を発表しました。でも「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは、かっこいいから間違いではなく狙ったのかも知れませんよね。

15:14 「バナナフィッシュ」との関係

「海流の中の島々」の動画でも言いましたが、人気漫画の「パナフィッシュ」の副題で「ライ麦畑でつかまえて」というものがあります。

「バナナフィッシュ」の孤独な主人公は、よくサリンジャーやヘミングウェイの小説を引用して、この世の汚さや不条理を比喩していました。

「バナナフィッシュ」の中でも「ライ麦畑でつかまえて」は、この汚い世界に僕はいたくない、助けてという意味だと思うので、やはりサリンジャーのメッセージをそのように捉えているのだなと分かります。

「バナナフィッシュ」は古い少女マンガなので、今読むと古いっと叫びたくなる内容ですが、2018年に新しく作られたアニメは現代バージョンでかなり完成度が高く見やすくなっています。amazon プライムのリンクを貼っておくのでファンの方は是非ご覧くださいね。


大人になって久々に「ライ麦畑につかまえて」を読んで、サリンジャーが1枚目に、支えてくれた「母へ」がきっかけで、初めてわかる新しい感想が次々と湧いてきました。

あくまでも私の個人的解釈である事をご了承下さいね。サリンジャーの他の作品もご紹介していくのでまたお付き合い頂けたら嬉しいです最後まで見てくれてありがとうございました。

「ライ麦畑でつかまえて」と暗殺事件の雑学

この作品を語る場合、世界的な「暗殺事件」のいくつかに、この本が関係しているという恐ろしい噂が存在します。以下の動画ではその辺の内容が上手くまとめられています。


「ライ麦畑でつかまえて」読書感想文の例文

■読書感想文:「ライ麦畑でつかまえて」を読んで

思春期にありがちな「子供の頃の夢と大人の世界の現実との葛藤」そして「そこに立つ若者のどちらにも入りこめない不安定な心情」。そのような、いつの時代にも、どこの世界にも存在する不可避的な悩みを、この作品は、主人公の悩みとして、読者である私に伝えているように思えた。

主人公のホールデンは、自分が出会う「インチキなもの」、「いやらしいもの」に対して、嫌悪感を覚え、侮蔑さえも示す。そしてその価値基準というものは、大人と子供の中立的立場にある彼にとっては、非常に微妙なところにあると思う。

それはいうなれば、精神的な下劣さ不潔さといったものを、感覚的に感じとり、反射的に反発する、という極めて不安定なものだったのではないか、と思う。

常識、道徳という仮面をかぶった大人。ホールデンはその偽善的な仮面を破って彼らの偽善性をあばこうとする。しかし、ある程度は見抜けても、いわゆる。「世渡り術」を十分身につけていない彼が、大人が作り出してきた世界を理解することは出来なかった。そこに彼独自の一つの世界が形成されたのだろう。

「幸運を祈るよ。」この一見何でもない、そして誰もがいいそうな言葉に、ホールデンは「僕なら誰にだっていうもんか」と抵抗を感じている。幸運というものが何であるかもわからずに、また祈りもしないのに、さも相手の事を考えているように口に出す無神経さへの怒り。

考えてみれば、本当にインチキくさい言葉だ。彼のこういう感覚に私は次第に共感を覚えていった。それがインチキな共感でないことを願いつつも・・・。

ホールデンは、子供に対しては、全身的共感を示している。いつだって「参って」しまうのだ。と同時に、精いっぱい大人らしくふるまおうとしたりするように、成熟・大人などに憧れる、というような一面も持っている。

そしてさっきは、「幸運を析る」という言葉に抵抗を感じていた彼が、生きていくためには『お目にかかれてうれしい」と、うれしくもなんともない時でも、言わなければならないとあきらめている。ここには確かに矛盾が認められるが、この矛盾こそ彼の不安定な立場を象徴していると思う。

一方で大人を嫌悪し、また一方で背のびをして大人の世界に入りたがっている。ホールデンの外見的な姿(頭の半分だけが白髪で一杯)は、彼のこの夢と現実との問で模索し、ストレスいっぱいの彼の精神状態を、象徴的に表していると思う。

彼は美意識の人間だ。彼の批判の根底にあるものは好悪の感情だけである。時には、自分の無垢を守るために相手を傷つけてしまうことすらある。そういう彼は、自分の美意識を社会・現実からの要求よりも優先させてしまうため、周囲に「反逆者」として映る。

そのため彼の周囲には、彼の美意識を満たしてくれるもの、彼の内心の構造を理解してくれる人はなかった。ついに彼は、誰も知っている人がいない土地に行って聾唖者のふりをしようと考える。

私は、たまらなくなってしまった。普通、誰が一体そんな事を考えるだろう。しかも、あまりにも消極的すぎる考えではないか、そんな気がした。でもわかる気がした。たぶん彼は、ばからしいインチキな会話がいやになり、自分の世界を維持しておきたかったのだろう。

この作品の題名にもなっている、ホールデンが唯一なりたかった「ライ麦畑のつかまえ役」とは一体何だったのだろう。大人が一人もいなくて、子供が何千人といる、そんなライ麦畑でのつかまえ役。あぶない崖のふちに立って子供をつかまえるつかまえ役。その崖のふちとは、子どもと大人との境であって、子供たちというのは、彼の中の夢ではないかと思う。

つまり、子供の夢がすべて大人の現実に吸収されでしまおうとするのを止める、そんな彼の大人の世界を嫌悪する思いのあらわれではなかったか、と思う。

子供にとっては、大人や現実の世界が、夢を否定し、それを殺そうとする力が強ければ強いほど、それに対する反発力は、大きいものとなっていくだろう。それは、大人の世界を少し垣間見た青年の場合は、更に顕著であるだろうと思う。

社会に対する、そして自分に対するいらだち、その間での葛藤。現代社会において、大学などの上級学校への進学者が圧倒的に多くなっていることは、一層この中途半端な時期を延ばしていると思う。しかし、この時期でしかつかむことの出来ない大切なものも多いだろうと思うのだ。

はっきりとは言えないが、自我を確立していく上でこの時期に自分が感じ取ったことは、そのまま自分自身に反映するのではないかと思う。

この作品は、私の心に大きな波紋を残していった。大人になるとはどういうことなのか。社会、常識って何だろう。そんな事を改めて感じるようになった。ホールデンがまだ掴みきっていないように、私もこれから摸索し続けて、大いに反発して何かを掴んでいきたい、そのように思った。(1975文字)

 
もう、読まないわけにはいかないでしょ!