「銀河鉄道の夜」を読んでの感想文
記念すべき第1回目の記事は・・・

宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」の感想文です。

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読んで

それは、突然のことだった。昨年の冬、私の父がこの世を去った。数日前に会ったときは、いつも通り元気で、数週間後に行く予定の海外旅行の用意をしながら「夢だったオーロラを見に行くんだ。」と、楽しく話していた父。突然の別れはあまりにも悲しく、空気が止まったかのような気がした。数日前まで同じ肉体をもち、生きていた人が火葬され、骨だけになるという現実を目のあたりにし、今さらながら死を身近に感じた。死を見つめ直したくて、ふと何十年かぶりに『銀河鉄道の夜』を手にした。
 
ジョバンニの唯一の親友であるカムパネルラがいじめっ子のザネリを助けるため、川へ飛びこみ、死んでしまった。私は、このカムパネルラの行動が「正しい行い」のように描かれていることに違和感を覚えた。そこには、カムパネルラの周りの人たちの悲しみが描かれていないからだ。もし私が友人を助けたとしても、結果、私自身が死んでしまったら親や友人たちは嘆き悲しむだろう。生きていることこそ、私を愛してくれる人たちに対してするべき「正しい行い」だと私は考える。
 
私は、ザネリを助けるために命をおとしたカムパネルラの行動を美談だけでおわらせたくない。ザネリが生きることで生まれる幸せも、カムパネルラが生きることで生まれる幸せも同じだけ大切なもののはずだ。生きているからこそ、一緒に思い出をつくり、言葉を交わし、笑いあうことができるのだから。
 
父が亡くなった時、年がいもなく、あまりにも悲しむ私を心配してか、母が「大好きなお酒を好きなだけ飲み、やりたいことを好きなだけやりきった人生は幸せだったね。」と言っていた。お酒に酔った父自身も、よく口癖のように「幸せだ。いつ死んでも悔いはない。」と言っていた。ふと、カムパネルラの生き方に目を向けてみる。
 
彼はいつも『誰かのために」という信念を持って生きていた。もし、ザネリを助けずにいたら、きっと助けなかった罪悪感や後悔を背負い苦しんだに違いない。そう考えると、命をおとしてしまったけれど「本当にいいことをしたら幸せなんだ」という彼が大切にしていた生き方をつらぬいたという見方ができるのではないか。
 
父の葬儀の時、お坊さんが「人の幸せは人生の長さで決まるのではありません。その人生の太さが大切なのですよごと話して下さった。父は仕事を全うし、海外旅行、登山を楽しみ、人生を彩った。たくさんの時間を母やおば家族、私たち家族と共に過ごし、愛に囲まれて生きてきた。死を迎える前日まで元気に生ききった父の人生は、太く幸せだったと素直に思うことができた。私はいままで死ぬことは不幸だという考えにとらわれていたが、「死は生きていく先にあるもの」ととらえたら、見え方がかわった。人は、死ぬために生まれ、生きているのではない。大切なのは、生き方そのもののほうなのだ。
 
ジョバンニは銀河鉄道の中で出会った姉弟にサソリの話を聞く。イタチに食べられそうになったサソリは必死に逃げ、井戸に落ちてしまった。いままでたくさんの命を奪っておいて、結局、こんな風に死んでしまうのなら、イタチに食べられてしまえばよかったと後悔しながら、闇を照らす星になったという。生と死はつながっているのだろうか。サソリが生きるために奪われ、死んでいった命がある。反対に、サソリが食べられ、死ぬことでつながる命もある。
 
カムパネルラとザネリも同じだ。生きているザネリの行動により、カムパネルラは命をおとし、その行動が逆にザネリの命をつないだ。生と死は、いつも隣りあわせで、単純に善悪で決めるものではないという考えに至った。これからザネリがどう生きるのかを私は知りたい。ザネリがこれまでのように身勝手に生きるか、カムパネルラの命の犠牲の上につながった命であると理解し、彼の思いをのせて生きるのかで、カムパネルラの死の意味は大きく変わる。ザネリがあらゆる人の幸せを求める生き方をしてほしいと願う。
 
「私はあなたであり、あなたは私である。」これは、宮沢賢治が残した私の好きな言葉の一つだが、父の死とともに、この言葉の理解がさらに深まった。人や地球のあらゆるものはすべてつながりをもち、存在しあっている。親友のカムパネルラと共に、銀河鉄道で死後の世界を旅したジョバンニは、「誰かのために生きることが本当の幸せ」という思いを抱いた。それは、ジョバンニが抱いた思いでもあり、カムパネルラの思いでもある。
 
私が父の思いと共に生きていく限り、父は私の中で生き続けるだろう。私が父の人生の一部であったように、父も私の人生の一部なのである。父が叶えたかった夢を私がつなぐ。父の夢は、私自身の夢となり、いつかオーロラを見に行こうと思う。父は無事、サザンクロスの天上の駅に着いただろうか。